写真は、ロシアのプーチン大統領 Photograph:( Reuters )
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ニューデリー時間4月4日01:22WION(インド国際ニュース)
by アチャル・マルホトラ
Achal Malhotra
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アチャル・マルホトラ氏は、2012年インド外務省退官、駐日インド大使、アルメニア、グルジア、在ウィーン国連・国際機関インド政府代表部副代表を経て、退職後 インド有数のシンクタンクでディレクターを務める。現在、ティロトマ財団特別研究員、国際関係コミュニティセンター運営評議会メンバー。
「WION インド国際ニュースについて」
WION は、ニューデリーに本社を置くインドの多国籍英語ニュースチャンネル。 Essel Group が所有し、Zee Media ネットワークのチャンネルの一つである。インドのニュース雑誌 The Week によると、インドの視点から世界のニュースや時事問題を扱うチャンネル。WION という名前は World is One News の省略形である。公式ウェブサイトは2016年6月15日に無料放送の衛星サービスとして各国で開始された。テレビチャンネルは2016年8月15日に放送を開始している。WIONはインド初の民営の国際ニュースチャンネルである。詳細
注:現在、世界中でロシアとウクライナの紛争が注目されていますが、我々が日本で入手する情報のほとんどは、欧米を中心にしたNATO擁護側から発信されているもの に限られていると言ってよいでしょう。
しかし、どのような紛争も、当事者両方の言い分を聞いて、読者が客観的に自身で冷静に分析し判断する方が賢明だと思います。
従って、この一連のウクライナ紛争のニュースに関しては、敢えて、ロシア側、及び中立国のニュースソースを全面的に解説しています。
「ウラジーミル・プーチンは政治家か、戦士か、それとも戦争犯罪者か?」
日本語解説:WAU
プーチン大統領は、1999年に当時のボリス・エリツィン大統領からロシアの首相に任命されて以来、20年以上にわたって途切れることなくロシアの舵取りを続けている(1999年にエリツィン大統領(当時)から首相に任命され、1年以内に大統領に選出された)。
プーチンの影響力と支配力が増し、ロシアがプーチンの指導の下で徐々に世界情勢に影響を及ぼすようになると、西側諸国ではプーチンに様々な属性を付与する組織的キャンペーンが開始された。
それは、独裁者、ナルシスト、いじめっ子、冷酷な敵対者、民主主義や統治機構を組織的に希薄化させた人物だなど、侮蔑的なものであることが多い。
ロシアのウクライナ侵攻(2022年2月24日)は、プーチン嫌いの人々が反プーチンキャンペーンを加速させ、彼を国際平和、安定、安全に対する脅威とする悪役として描くだけでなく、彼の精神状態を疑い、彼を「狂人」と表現するのに都合の良い環境を作り出してしまったのである。
バイデン米大統領に至っては、ごく最近、プーチンを「虐殺者」「戦争犯罪者」とまで罵倒し、権力の座に値しないとしている。
インドの作家、アミシュ・トリパティの言葉を借りれば、
「あなたの真実があり、私の真実がある。普遍的な真実は存在しないのだ」
であるならば、プーチンの「真実」とは何だろうか?
大統領就任直後の2000年に出版されたロシア人ジャーナリストによるプーチンへのインタビュー集『The First Person』では、息子、小学生、大学生、若き諜報員、スパイ、民主主義者、官僚、家庭人、政治家としてのプーチンを紹介し、ロシアの新大統領の姿を描いている。
驚くような事実があったわけではないが、いくつかの指摘は興味深かった。例えば、プーチンは「ソ連の愛国主義教育の純粋な、全く成功した産物である」として、スターリンの激しい粛清についてあまり知らなかったことを率直に認めている。
冷戦時代のハンガリーやチェコスロバキアへの侵攻についても、ソ連指導者を批判した。彼は言う、
「これらは大きな間違いだった。そして、今日の東欧に見られるロシア恐怖症は、その過ちの結果である」 と。
プーチンの片鱗が公開されてから20年以上が経過した。プーチンの人物像を知るには、幼少期からその生涯を振り返ってみることが有効であろう。
プーチンは1952年10月、第二次世界大戦で包囲されたレニングラード(現サンクトペテルブルク)で生まれた。
歴史家、伝記作家、専門家の間では、プーチンの幼少期はトラウマに満ちたものであったというのが大方の見方である。
心理療法士で作家のジョセフ・バーゴは、2014年にこう総括している。
「ウラジーミル・プーチンは飢え、障害、深い悲しみのこの雰囲気の中に生まれた」
プーチンは「The First Person」で幼少期の興味深いエピソードを振り返っている。
「玄関にネズミの大群がいて、友達と棒で追いかけ回したものだ」
このネズミ追いは、彼の考え方の構築に影響を与えたようで、次のナレーションからも明らかだ。
「一度、大きなネズミを見つけ、廊下で追いかけ、角に追いやったことがある。もう逃げ場がない。その時、突然、ネズミが飛びかかってきて、私に体当たりしてきたんです。私は驚き、怯えた。ネズミは私を追い払おうとしたのです。幸いにも、私の方が少し速かったので、ネズミの鼻先でドアをバタンと閉めることができました。その階段の踊り場で、私は追い詰められたという言葉の意味を、素早く、そして永く学ぶことができたのだ」
2008年8月のグルジアへの軍事介入、2014年のクリミア併合、そして今回の2022年のウクライナ侵攻は、NATOの東方拡大や欧米のG8除外などの手段によるロシアのプーチン孤立化、一方的制裁によるロシア経済低迷、プーチンイメージダウンに「追い詰められた」と感じた結果でしょうか?
アメリカは今、プーチンを「追い詰める」ための努力を倍増させている。
プーチンは、ウクライナで宣言した目的を達成するために、彼は一歩引くのか、それとも任務を加速させるのか。
ウクライナの中立性、東部地域の支配、ウクライナでの宣言された目的を達成するために、彼は後退するのか、それとも加速するのか。
ウクライナでの政権交代は可能なのか?
答えは「イエス」である可能性が高い。
なぜなら彼は、つまるところ、近所のいじめっ子やフーリガンと戦うために幼少期に武道を習い、柔道に秀でた格闘家だからだ。
プーチンは2015年10月、欧米のジャーナリストに対して、興味深い見解を述べている。
「50年前、レニングラードの街は私に一つのことを教えてくれた。戦いが避けられないなら、最初に攻撃しなければならない」
プーチンはかつて、ソ連の崩壊を「今世紀最大の地政学的大惨事」と表現し、「ソ連を恋しく思わない者は、心がない」と述べたことがある。
このプーチンの発言には、ソ連の強力な情報機関KGBの将校として数年間所属していた世界的権力に対する郷愁が込められている。
しかし、それ以上に重要なのは、彼が記録に残して警告を発していることは、
「ソ連を取り戻そうとする者は、脳みそがない」
である。
このようにプーチンは、崩壊したソビエト帝国を再建することが不可能であることを理解している現実主義者である。
しかし、プーチンは一つの考えに固執している。すなわち、ロシアの地位を、耳を傾けるだけでなく、尊敬され、おそらくは恐れられるような世界の超大国に回復させるということである。
ロシアは旧ソ連地域をロシアの「近海」と定義し、ロシアの自然な影響圏と考え、NATOの東方拡大を含むいかなる侵犯にも強く反対している。
チェチェンとの戦争に関するプーチンの公的見解も、彼の考え方を反映している。彼はかつてこう言った。
「もし我々がすぐに過激派を止めなければ、ロシア連邦の全領土で第2のユーゴスラビア、つまりロシアのユーゴスラビア化に直面することになると確信していた」
つまり、プーチンはソ連を元の姿に戻せないのであれば、ロシア連邦のさらなる分断を許さないということである。
ロシアのシリアでの軍事作戦は、表向きはISISに対抗するためだったが、真の目的はアサド大統領政権を守ることであることがすぐに明らかになった。
つまり、プーチンは、友人や同盟国を守るために、自分の首を差し出すことをいとわない指導者なのです。困ったときの友は本当に友である。
1999年の大統領臨時代理のときから、プーチンはヨーロッパとの緊密な協力関係を望んでおり、NATOへの加盟の可能性も排除していなかった。
9.11以降、プーチンはテロとの戦いにおいて、米国にあらゆる支援を申し出ている。
もし、西側諸国がプーチンの早期の意思決定に応じ、ソ連崩壊とそれに伴うワルシャワ協定の解消をきっかけにNATOを解体し、ロシアを対等かつ尊敬すべきメンバーとして大西洋の新しい安全保障構造に組み込んでいたら、世界の政治と安全保障はどのような状況になっていたか、今や推測するほかはない。
また、プーチンは当初から、自分にとって都合の悪いことは主張し始めていたことも事実である。
2001年、ブッシュ米大統領が1972年の対弾道ミサイル条約を破棄したことに強く反対した。
その後、2002年から2003年にかけて、米英がイラクのサダム・フセイン政権を武力で追い出す計画に反対した。
NATOの東方拡大には当初から反対していたのである。2015年のクリミア併合は、欧米に触発されて2015年にウクライナで親ロシア政権が交代したことに対するプーチンの断固たる反応、あるいは復讐であった。
そして、戦略的に重要なウクライナのクリミア半島を、住民投票という一見民主的なプロセスでロシア連邦に編入することを巧みに操り、それを実現したのである。
プーチンのソフトな面が明らかになったのは、当時KGBの中堅幹部だったプーチンを無名から拾い上げ、政治の世界で初めて仕事を与えた恩師アナトリー・ソブチャクの葬儀で、彼が人前で泣く姿を世界が見たときだけであるが、それ以来、プーチンは少なくとも公の場で感情を出さない程度には心が硬くなったようだ。
プーチンの人物像は、ペン画以上のものを描くのは難しい。
しかし、プーチンが政治家として国内外から尊敬される存在になりきれていないことは確かであろう。
確かに彼は、失われたロシア帝国の栄光の回復を目指す強いナショナリストである。
彼は、困難な状況下でも生き残る術を持っている。
国際的な行動規範の中核となる原則について、西側諸国の都合のよい解釈を受け入れることをしばしば拒否し、追い込まれたときにはコストや結果を気にすることなく反撃することを厭わない。
彼は戦士である。
しかし、アメリカ大統領が彼を戦争犯罪人と呼ぶのは、アメリカ大統領が自分の戸棚に多くの隠し場所を持っているという事実の他に、少し言い過ぎではないだろうか。
以上。
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翻訳者からのコメント:
ここまで読み進めていただいた貴重なお時間ありがとうございます。記事が面白いと思っていただきましたら、是非、SNSにシェアしてください。